子ども時代のこと
上の娘が3年生になった。小学校に上がった時は、小さい体に重いランドセルを背負って歩いて行く姿が痛々しいようだったが、ずいぶん頼もしくなった。
僕は、今の娘と同じ3年生(1978年)の2学期から6年生まで、親の仕事の関係でベルギーに住んでいた。当時ブリュッセルには全日制の日本人学校がなく、土曜日に、算数と国語だけを教える補習校というものがあるだけだった。多くの駐在員の子供たちがインターナショナルスクールやブリティッシュスクールに通う中、両親は僕を現地の公立小学校に入れた。カタコトも話せないまま、フランス語の学校に通うことになったのだ。
東洋人は学校で僕だけだったが、黒人、白人、イスラムが入り交じっている国の子供たちは興味津々ですぐに受け入れてくれた。中国人(Chinois)と日本人(Japonais)の区別の付かない友人たちに憤慨し、身振り手振りで違いを説明したものだ。
授業は先生が何を言っているか全く分からなかったので、ただ聞き流し、算数の時間だけ生き生きと問題を解いていた。大人も計算が苦手なこの国では、九九ができるだけでヒーローになれる。授業は、なんとなく意味が分かるようになるまで10ヶ月はかかっただろうか。テストの時も特例扱いで白紙で答案を出していた僕に、ある日先生が「お前、いい加減にしろ。もうできるだろ!」と怒った。おお、そうだった、やらなくちゃ、と思ったことを覚えている。勉強はできる方だったので、言葉のハンディを越えてそれなりにはこなしていたが、宗教や歴史は重厚すぎてよく分からなかった。
ベルギーでは日本のように子どもを甘やかさない。電車では、席がなければ両親が座って子どもを立たせる。大人が、バス停に並んでいる小学生のお菓子をつまみぐいしたり、頭をはたいたりする。向かいの家では、夕方になると鍋に溶いたインスタントスープを子どもに与え、親は夜になってからチキンを焼いて食べていた。親友から、「水曜日は楽しみなんだ。フリッツ(フライドポテト)が出る日だから」と聞かされた時は、木曜から火曜まで何を食っているのか怖くて聞けなかった。日本人に生まれて良かった、と心底思ったものだ。
学校にクレームに来た母親が担任の女性教師と髪を引っ張り合って大げんかしたり、家が貧しく勉強が全くできないイスラムの子がいたり、良くも悪くも人が人として生きている社会だった。たとえ小学生であっても、「個人(individual)」という感覚を持たざるを得ないような空気があった。
動きの多い人生を送っている僕だが、思い返してみても、あのベルギーの現地校で感じたダイナミズムを越える体験はそう多くはない。周りと意見が違ったり、分かり合えない状況があっても、あの小学校の多様さに比べれば実に他愛のないことだ、と思ってしまう自分がいる。
全校生徒が60人に満たない娘の小学校では、今年は2年生と3年生が複式学級になった。妻は子どもの学力を案じているが、僕はまぁなんとかなるのではないか、と思っている。少なくとも授業は日本語なのだから。僕の血を引いている娘は、そんなことで将来が決まってしまうほどヤワじゃないだろう。人はもっとやさしいし、世界はもっと豊かだ。
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