取材から考える
たまに、書く媒体や時期・テーマが決まらないまま取材をしたいという依頼がある。
取材しながら文脈が決まっていくことも多いだろうから、それは分かる。ただし、その場合は、掲載時に内容をチェックさせてもらうのは当然だと思うし、少なくとも、こういう趣旨でまとめることになりました、という事前説明は必要だろう。パーツのひとつひとつが事実であっても、文脈が異なれば伝わり方は変わるからだ。それどころか、「何が真実か」など、文脈次第でいかようにもなる、と僕は考えている。皆がそう考えるべきだと思っているわけでは全くない。考えに賛同してもらえない場合は交渉決裂、すなわち取材をお断りするだけの話である。
一方、新聞や週刊誌の多くは事前に原稿を見せないルールになっているらしい。尤も、以前は絶対に見せないと言っていた媒体が、最近では見せてくれたりする。ルールは力関係で弾力的に運用されているようだ。見せてもらえなくても取材を受けることはもちろんある。それは、正しく伝わらないリスクを負ってでも取り上げて欲しい時だ。名やプロジェクトを売りたい、とか、その人に会ってみたい、面白い企画になりそう、などの時である。僕は2番目3番目の理由が圧倒的。もちろん、直接的なメリットを考えて割り切るケースもあるが、多くの場合、金は後から着いてくると思っている。
要するに、人で決めているのだ。だから、その人を好きになれるか、どんな情熱があるか、で決まる。「弱小農家が何を偉そうに」と思われるならそれで結構。別に困っていないし、困ったら、その時はその時で何とかする。
というようなことを考えたときに、やはり大手メディアの記者というのは、自分を好きになってもらえるような努力とか、情熱を伝える温度のようなものが弱いと感じるケースが多いのだ。それは肩書きで仕事をしているからだろう。フリーの人というのは、どんなに名が通った人であっても、対応が丁寧だし、一生懸命だ。本当に聞きたくて話を聞きに来る、つまり「自分ごと」としてその仕事をしているのが伝わってくるのである。
文句を言おうというのではなく、自分もそういう生き方をしたいし、自分の会社はそういうチームにしたいと思っている、という話。
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