修業について
「修業」について思いを巡らせています。
僕は現在46歳。好き勝手に生きている僕でも、この年になると世の中のことが分かったような気になるものです。
理不尽な暴力が誰かを傷つけたり、自然の猛威が人の命を奪ったりしても、ああ、それはこういう理屈で起きていることだよね、などとしたり顔で解説してみせたりします。大抵な事には驚かなくなってしまった。いろんなことに落ち着いて対応出来る、という言い方もできますが、裏を返せば「これまでの自分の経験」という名のメガネを通してしか世界を見なくなったことの表れです。
そのメガネをかけてさえいれば、チビっちゃうような恐怖もなければ、二度と立ち上がれないような敗北感に苛まれることもない。心穏やかです。しかしそれは、経験メガネが、見たものを既に知っている何かに無理やり結びつけてくれているからかもしれない。このメガネは、見たことのないものは映らないように出来ているのかもしれない。ひょっとしたら、心地いい方向にしか顔が向かないようになっているのかも。それは楽だ。ありがとう、経験メガネ。
そんなメガネをかけている自分は、必死に生きているつもりでも、自分の経験という枠の中で考え、選択しているだけなのでしょう。生まれつき皆にメガネが与えられていたら、悩みは少なくなるかな?でも、世の中に怒りを覚え、曇りなく世界を見る人がいなくなってしまうかもしれません。
だから、まだ経験に毒されていない、しかも力のある若者を発掘して育てて行くことがとても大事だと思っています。当人には、それは苦しいことなのかもしれない。そもそもこの道が正しいのか、まっすぐ歩けているのか、誰にも分からないまま進むしかないのですから。
でも、ひたすらわがままに生きてきたつもりの僕ですら、いつの間にかメガネをかけるようになり、だんだんメガネが顔に張り付いて取れなくなってきて(←今ここ)、しまいにはメガネをかけているのが心地よくなっていくのでしょう。
だから若者よ、君の親が、教師が、上司が、優しい笑顔でメガネを顔にかけようとしたら、即座にそれをたたき割って、家を出て行きなさい。
その先に何が待っているかって?そんなことは知らん。自分で見つけてくれ。
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